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COLUMN


SPINNER × 向田邦子 没後40年特別イベント 「いま、風が吹いている」 特別対談にご登壇いただいた美術家のミヤケマイさんによる書下ろしエッセイ。現代の女性にとっても色あせない魅力を持ち、興味を惹きつける向田作品と、その中で描かれる女性像について、独自の視点による分析が綴られています。

短編小説集で1つでも心に一生残る一文に出会ったら儲け物だと思っている。短編好きなくせに、私はあまり多くを期待しないくせが付いている。大概は読んでいる時は面白いと思っているのだが、読み終わり本を閉じてしまうと、日常の雑音にかき消されるように、その本の何がどれがどう面白かったのか、ぼんやりしてしまう。それはまるでいつも通い慣れている街の一角が取り壊されてしまったあと、何千回も見て知っていたものが、なんだったかとんと思い出せないという、不気味さと虚しさに似ている。
向田邦子の本に出会ったのは『思い出トランプ』という短編集で、私は子供から大人になる過渡期の最中だった。つまりだいぶ前のことなのだが、未だにまるで映画の1シーンのように情景やセリフが思い出されるのは、驚異的であり不思議でもある。それはまるでリアルに登場人物を知っていて、その場に、現実に居合わせたかのような記憶として鮮明に残っているのである。『思い出トランプ』は、昭和五十五年から一年間「小説新潮」に掲載されていた短編をまとめているのだが、濃い。一冊に一生忘れられない話が3つも入っている。『かわうそ』、『花の名前』、『男眉』。現代女性三部作と勝手に私は呼んでいる。それ以外にも向田邦子の小説に全て外れはないのだが、特にこの3つは突き刺さったまま長い年月記憶から抜けないのである。向田邦子の小説は日常の特に珍しくもない事柄を、丁寧にどんな些細なブレや揺れも見逃さずに積み上げていく。よく知ったありふれた日常の話なのに、最大であり未解決の謎である、自分という不可解なミステリーが、通常言葉にできない私たちの心の中のおりのようなものが明文化され、解らない事が腑に落ちるという稀有な体験をするのだ。
どうも『だらだら坂』、『はめ殺し窓』、『マンハッタン』など男が主人公のものより、私は女目線の向田さんの物語の方が好きなのである。それは①多分私が女だから、②向田邦子さんが女だから、③向田邦子さんが女であることによって男性を都合よく理想化して、女性の期待や希望によって真実が歪められないように、冷徹なほど自分という女性の意識から切り離して、男性というものを観察し、男性の視線の先を追っているから、必要以上に客観的になろうとして少し辛くなるのだ。
その反面、女性主人公のものは水を得た魚のように、日常に散りばめられた、嘘や建前の隙間に漏れ出る人々の本音が生き生きと鮮やかに切り出されていく。『かわうそ』では、日本女性の持つしなやかな強さ、生命力、自己本位な子供っぽさ、狡猾さ、残忍さが陳列され、まさしく獺祭のようである。みかんやメロンのように胸を持ち上げて着付けをする女が、「メロンねえ、銀行からのと、マキノからのと、どっちにします」というところは日常生活の中の小さなイメージや、シンクロニシティーを丁寧に積み上げ、実に職人技を見せている。「庖丁持てるようになったのねえ。もう一息だわ」のセリフには悪女の深情けなのか、怒らせて努力するように仕向けたのか、はたまたこの細君は最後の展開まで、夫を追い詰めて計画的にしているのではないか、とどっちに転んでも自分が得するように潜在意識の中で手を打っているような感じが心底、女性の怖さを感じさせ、おそらくどんな男性も歯が立たないのではないだろうか。
『花の名前』では、教養も立場も相手より優勢な女性、愛すより愛される方が幸せになるという優位な立場を選んだ女性の落とし穴を、男性の時間と女性の時間の流れの差、つまり社会の一員とそこから切り離された専業主婦的な時間の差をうまく切り出している。その上、一番得をするのは馬鹿に見せている賢い女で、いちばん損をするのは賢く見えて馬鹿な女という日本独特の女性あり方を示唆している。
『男眉』は、地蔵眉の妹と男眉の自分とその連れ合い達を介して、男性社会を利用して男性を操ることで得する女と、本来の女性の素であるがゆえに、損する女性をうまく書き分けている。女性らしい見かけや言動の女性ほど同性から見るとまるで男のように感じるのはこういうことなのかもしれない。この社会の中で与えられ、望まれる女性像にうまく自分を入れ込むことが得意な女と、社会に去勢されず、野放図(自然体の女性)の対比と、後者の男性が作った社会で生きる苦しさは、三部作全部に渡るテーマで、社会が女性をどう押さえつけ、そこから自由になるにはどうしたらいいのかを示唆している。「me too」などジェンダーの問題が再浮上している現代において、女性性と男性性とはどういうものなのか、向田邦子は与えられた既成概念の中でそういうものでしょと、思考停止せず、決めつけず、細かく観察をし、事実を浮き彫りにしている。

私の好きな『鮒』と『ビリケン』が入っている、もう1つの向田邦子の短編集(なぜかこれは途中から『女の人差し指』と同様のエッセイになっていて、一冊で小説とエッセイが両方読める向田邦子入門編にはお得な本になっている)がある。
『鮒』は円満な家庭の男の家に、一年間だけ愛人関係にあった女の家で飼われていた鮒がやって来るところから話は始まる。ホラーなのかコメディーなのかこの感じが向田さんの真骨頂だと思う。笑いの中に怖さがあり、怖さの中に如何ともしようの無い救いがあり、いつもこの人の小説はビタースウィートなのだ。ある日忽然と台所に現れた鮒を、娘は生臭い匂いが家に染み付くと言って嫌い、息子は飼いたがり、そして妻と鮒が二人きりで留守番をしている時、夫は鮒の世話をしてくれている息子を連れて、自虐的に昔付き合っていた女のアパートの近くの喫茶店にいく。それを一年前の古戦場を葬りに行くと評するあたり、そしてそれが何も知らずに鮒の世話をしている息子への仁義であり、愛人への罪滅ぼしだと思うところはなんとも男性的な思考回路で、向田さんは本当に日本の男性のことがよく分かっているなと感心してしまう。男が元愛人宅の周りを徘徊して戻って来る間に鮒は死んでしまう。死んでしまった鮒を前に息子は母親が殺したのではないかと疑い、男は安堵し、妻は息子と夫がどこに行ったかを尋ねるが、息子は答えない。筋を追うだけで、ゴムが伸びたパンツのような平凡で幸せな家庭の薄氷一枚下に蠢く、現実とその幸せを維持するために犠牲や贄になっていく人たち、抑圧された自分の潜在意識が蠢いているのが物語の中で不可思議な露呈をしていく。
この『鮒』の入った短編集のそのタイトルが『男どき女どき』なのである。時の間にも、男時・女時とてあるべし(風姿花伝)。男時は何をやってもうまくいく時、間合いを示し、女時はその反対で何をやってもダメな時とあり、『ビリケン』もそうだが、向田邦子の話の根底にある因果応報、諸行無常、秘すれば花といった東洋と日本の中に横たわる人生哲学に行き着く。どんなに時代が変わって、超高層ビルが立ち並び景色が一見変わっても、ウーバーで家庭の料理が届けられ、国民全員がマスクをしてこもる生活になっても、めまぐるしく変わる男性上位の父系社会の盛衰を横目に、変わらない日本の男の弱さ、狡さ、愛らしさ、そして日本の女の強さと切なさと渇望は、普遍的に続いていく。日本が母系の農耕民族であったこと色濃く残す日常や家庭の全てが向田邦子の小説の中にはある。だからこそ『あ・うん』、『父の詫び状』、『蛇蝎のごとく』、『寺内貫太郎一家』に、私たちは自分が経験をしていないくせに、自分の家庭の原型を見て、自分が生まれる前に生きた主人公と自分を重ね、物語の登場人物達は生き続けてゆく。
向田邦子は未だ解明されない男女の間に流れる深くて暗い川を鋭い光で分析しながら、なぜ人は不可解な言動をとるのかという柔らかい闇で覆う。男性の作った社会の中に飲み込まれず、そのおりの中で女性という野生動物として生きていく。孤高で気高い向田邦子達の後ろ姿を私たちは小説の中外に見るのである。

PROFILE

  • 美術家/京都芸術大学教授
    ミヤケマイ

    日本の伝統的な美術や工芸の繊細さや奥深さに独自の視点を加え、過去・現在・未来をシームレスにつなげながら、物事の本質や表現の普遍性を問い続ける美術家。一貫したたおやかな作風でありながら、鑑賞者の既成の価値観をゆさぶり、潜在意識に働き掛ける様な作品で高い評価を得る。斬新でありながら懐かしさを感じさせるタイムレスな作品は、様々なシンボルや物語が、多重構造で鑑賞者との間に独特な空間を産み出す。媒体を問わない表現方法を用いて骨董・工芸・現代美術・デザイン、文芸など、既存の狭苦しい区分を飛び越え、日本美術の文脈を独自の解釈と視点で伝統と革新の間を天衣無縫に往還。主な展示に水戸芸術館 現代美術ギャラリー「クリテリオム65」、ポーラ美術館「天は自らを助くるものを助ける」、メゾンエルメス「雨奇晴好」、「面影」ワコールスタディホール京都 、「変容する家」金沢21世紀美術館2018、釡山市美術館「BOTANICA」2018、大分県立美術館「アート&デザインの大茶会」2018、さいたま国際芸術祭2020他多数。講談社から詩と小説の間の掌握小説「お休みなさい良い夢を」とプラープダー・ユンと共著の実験的な小説「色カラーズ」など三山桂依の名前で小説2冊を出す他、同名で映画や本、日本美術のコラムなど連載を雑誌などで執筆。

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