
DIALOGUE
『しばてん』『ちからたろう』など、子どもから大人まで幅広い世代に愛される絵本をうみだしてきた絵本作家の田島征三さんと前田エマ編集長との対談は緊急事態宣言の最中にオンラインで行われました。家で過ごす時間が増えたことで本棚から懐かしい書籍や絵本が出てきた、という人も多いはず。これからどうなるか誰も予測がつかない不安定な状況でも、絵本を開くと幼い頃の気持ちに戻り穏やかな時間を過ごすことができる...そんな懐かしい気持ちも思い起こさせてくれた対談でした。
田島さんは今年、「小さなノーベル賞」と言われている『国際アンデルセン賞』の最終候補となりました。国語の教科書に掲載されている作品で、田島さんの作品を知った方もいるかもしれません。そんな田島さんは2009年、新潟県十日町市の廃校をまるごと空間絵本にした「鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館」を開館。編集長はこの美術館をお手伝いしていたことがあり、田島さんとひとつ屋根の下、一緒に生活していたこともこの対談で触れています。そして最後にはSPINNER DIALOGUEでは初となる動物(ヤギと猫!)も登場します。
前田:征三さんの住んでいる地域(静岡県伊豆市)のコロナの状況はいかがですか?

田島:出かけるところもないし、スズメくらいしか近くに寄ってくれないんだ。この対談の直前にスズメが飛び込んできた。
前田:征三さんは最近はどのように過ごしていますか?
田島:だらけてるよ(笑)。
以前は「明日出発だから今日中にこれだけはやっておかなきゃ」という緊張感があったけれども今はそれがなくてなんとなくだらけてしまう感はあるよね。
前田:私も征三さんも、普段から絵を描いたり文章を書いたり作品を作ったり…、というおこもり生活だと思うのですが、誰かと会う約束があるとか、行く場所があるということがこんなにも大切なんだと感じています。
田島:去年、一昨年なんかはとても忙しかったから、書籍を贈呈されてもそのまま置きっぱなしだったり気がつかなかったりしていたんだけど、本の山をいじっていて「こんな本があった!」っていうことが何回かあったね。もし催促されたらどうしようって思っているんだけど、出版社の人たちも時間があるのかな、原稿の催促をしてこないよ。
ただ、明日、出版社の方がこの本(『つかまえた』偕成社)の校正刷をいよいよ見せてくれるの。すごい良い内容になったよ。
前田:どういうきっかけでこの本は生まれたんですか?
田島:僕の子供の時の体験を初めて絵本にしたんだよ。魚を捕まえたっていう話なんだけど、魚は手のひらで暴れたり逃げようとしたり、逃げちゃったりするじゃない。その時の心の動き、ドキドキ感とか、手のひらに残った「ぐりぐりぐり」っていう魚の感触とか、絵には描けないものを描こうと思ったんだ。
前田:征三さんは絵本を描くときは「こういう絵を描こう」とビジョンを持って描くのですか?それとも匂いとか感触を描こうと思ってフィーリングを大切に描くのですか?どうやって絵本を組み立てていくのか教えてください。
田島:今までやらなかったことをやろうという気持ちが常にあるよね。今回は視覚化できないもの、可視化不可能なものに挑戦してみた。挑戦して成功したらいいんだけど、成功しなかったら、やめちゃおうかな。
日本人は、不言実行ってよく言うでしょ、黙って何も言わないけど良いことをばーん、とやっちゃう。でもね、僕の場合は有言実行なの。言いふらしちゃってるの。このあいだもNHKのラジオで「こういうことをやるんだ!」って言っちゃった。聞いた人は今後「あれはどうなってるんですか?」って聞いてくるかもしれないね。そうしたら逃げられないよね。だから言っちゃうってことは、僕にとってすごい大事なの。僕みたいな怠け者には。
ここのところ4か月間半くらいかな、有言実行の緊張が続いてたよ。
前田:コロナ禍が広がっていく中で、今回の創作や征三さんの心の中に何か影響はありましたか?
田島:具体的な影響はないけれども、医療関係の人のことを考えると、すごい大変な場所にいて責任を負っている。そういう人がいるのに、だらけてしまっている自分がいるというのが気になっていたよね。難民キャンプのように、感染を防御することよりも命そのものが危険な状況にいる子供たちとか、そういう状況を考えると何かをやり遂げても「やった!」という気持ちが半分くらいで、こんなだらけてていいのかな、という不安な気持ちも湧いてくる。
日々のニュースでは感染者とか医療関係者が差別されているという、とんでもないことが起きていると報じているでしょ。昨年、僕は瀬戸内の大島のハンセン病について取り組んでいたんだけど(瀬戸内国際芸術祭「やさしい美術プロジェクト」)、ハンセン病の彼らは大島に閉じ込められて差別を受けて、自分が病気なのにさらにひどい目にあわされていた。病気だから助けてほしいはずの人が、差別を受ける、という二重の苦しみを受けていた。僕が住む地域でもコロナ感染者が出て、その人に対して「なんでコロナなんかもらってきたのか」って言われているかもしれないよね。もしそういう誹謗中傷を聞いたら、感染した人も苦しんじゃうよね。苦しんでいる人の立場に立てない、人間の悲しい一面を見せつけられた気分になるね。人間の無慈悲さが自分の心の中にも多少なりともあるのだろうかということについても考えていたね。

前田:私も「こんな考え方ではダメだ」と思っていても、誰かの苦しみや悲しみを、受け入れられない心が自分の中にも少しあって…。酷い人間だなあ、なんにも行動していないくせに…と。
ところで征三さんは日の出町(東京都)で暮らしていましたよね。私はその頃の生活がテーマとなっている『やぎのしずか』(1975年・文化出版局、1981年・偕成社(改増作))のシリーズがとても好きで、そのあたりの頃からのお話を聞かせてください。
震災の時もそうだったけど、今回のコロナ禍で自分が生活する場所や仕事をする場所について改めて考えた人も多いと思うのですが、征三さんは高知、東京、静岡、新潟、瀬戸内、と色々な場所を移動して人生を送っていらっしゃいますよね。
田島:22歳の時、中野から国立(当時は国立町)に引っ越した。世界中が自分を認めてくれない時期で、女性にも逃げられたし仕事もないし、お金も食べるものもない。そんな時に雪がチラチラ降っている国立の雑木林を引っ越している自分を思い出しちゃうね。その頃、児童文学者の今江祥智さんは、唯一僕を認めてくださった方だったな。
最初の絵本は、国立に引っ越してから約1年後に出した『ふるやのもり」(『こどものとも』1965年1月1日号)。これを出版した途端に、赤羽末吉さん(絵本作家・代表作『スーホの白い馬』)と長新太さん(絵本作家・代表作『おしゃべりなたまごやき』)が「ぜひこの若者に会いたい」って、アトリエに呼ばれて褒めてくれたんだよね。長さんは「どうやったらこんな絵が描けるの?」とか「君みたいに細かいことなんか無視するような絵を描きたいよ」って言われたよ。「近眼だから細かいこと描けないんですよ」って言ったら、長さんが「僕も近眼になりたいなあ。」なんて冗談言ってくれて。赤羽末吉さんはすき焼きをごちそうしてくれたね。瀬川康男さん(画家・絵本作家・代表作『いないいないばあ』)は僕の寝起きしている三畳間に泊まっていった。そんな諸先輩方に囲まれて評価をいただいて意気揚々としていたのに全く本は売れなくてね。「こんな芸術ぶってる本は子供のためにはならない」ということも言われたりしたよ。世界は敵だった…って思ったね。
その後、今江さんの後押しで「ちからたろう」(1967年・ポプラ社)を出版し、それがブレイクしたんだけど仕事がたくさん入りすぎて日の出村に引っ越したの。
前田:征三さんは絵本作家になりたかったんですか?それとも絵を描きたかったんですか?
田島:小学校の時は漫画家になりたいと思っていたよ。
前田:もともと物語と絵が共存することに興味があったのかな。
田島:絵を描くのは好きだったね。中学生くらいまで漫画家になりたかっけれど、それはそんなに長くはなかったね。
あとは母親が読んでいた雑誌に泰西名画という口絵ページがあって、ピカソやセザンヌやデュビュッフェといった、いわゆる名画が掲載されていたんだよ。当時僕はパウル・クレーや藤田嗣治が大好きで、世界的な画家になりたいって思っていたの。
世界的な芸術家になりたいという中学生の頃の気持ちは、今でもしつこく持っている。諦めていない自分がまだ居るのが嬉しい、という気持ちだね。
前田:先程、昔「子どものための絵本じゃない」と言われたとおっしゃっていましたが、絵本って今では大人も楽しむ本として定着していますし、『絵本と木の実の美術館』(新潟県十日町市の鉢集落にある征三さんの作品が多数展示されている美術館。廃校となった小学校の最後の在校生3人を主人公にした空間絵本になっている)も大人のお客さんもとても楽しめる場所になっていますよね。征三さんは絵本を子供に向けて描こうと思っていないですよね?

田島:子供にだけ向けて、とは思っていなかったな。
前田:どうして表現の媒体が絵本だったんですか?
田島:高校の時に親から「大学はどうするの」と聞かれて「美術大学に行きたい」と言ったら、双子の兄弟も美術大学に行きたい、と。当時は「絵描き=収入が少ない人」というイメージがあったから、一家から二人も美大に行って絵描きになるということに対して父親がすごく怒った。「絵描きは家に置いておけない!出て行け!」ってなっちゃった。
そうこうしているうちに「東京で商業デザイナーという職業の人が月収30万もとっていて自家用車に乗っている」という話を父親が聞いてきて、「お前たちも商業デザイナーになるなら美術大学に行ってもいい」ということになったの。
商業デザイナーにはなりたくないけど、東京に行って学校に入ってしまえば親にはわからないじゃない。それで受験して図案科に入ったんだよね。当時デザイナーというのは金の卵で、油絵科だったら2倍くらいの競争率なんだけど図案科だと30−40倍の競争率だったんだよね。すごく厳しい受験戦争をしていたんだね。
図案科内では結構頭角を現して、3年生の時に博報堂の実習生に推薦されたの。だから就職が決まったようなものだったんだけど。不二家(超大手お菓子メーカー)と佐藤製薬(超大手製薬会社)の担当部署でね。製薬会社のためのポスターを描いたんだよ。いい出来だと思ったんだけど、「これは君の宣伝であって、佐藤製薬の宣伝ではない」とバッサリ。「俺は他人の宣伝をするために生きているのではない!」ってすごく矛盾することを言って喧嘩して帰ってきちゃった。教授も呆れるよね。それで「君はデザイナーには向かない、出版の仕事をしなさい」って紹介状を書いてくれた。紹介先に、自分の作品がないと意味がないじゃない。そうして絵本を創ろうと思ったんだよ。手刷りの『しばてん』(後に1971年に偕成社から出版される)の絵を持って何社か行ったね。
そのなかに、山下勇三さん、和田誠さんといった有名なデザイナーがいるライトパブリシティというデザイン会社の村越襄さんに紹介状を書いてもらって、和田さんにも会えて作品も預けた。そうしたら和田さんから「君に会わせたい人がいます」というハガキが来て。和田さんのところに行ってみたら今江さんが待っていて、すでに『しばてん』をご覧いただいていたんだよね。今江さんはこの本を電車で読んで泣いちゃったんだって。
友達でも親戚でもない人が泣いたっていうことに僕は衝撃を受けたの。人を泣かせられる才能が僕にはあるんだ、と思ったの。学生時代から賞を獲ったりして少しは名前は挙がっていたんだけど、具体的に自分の絵が涙を誘うっていうのが自信にもなったし、最初の絵本を出せることになったのも今江さんが色々紹介してくれたから。でも世間はまだ認めてはくれなかったね。その後、今江さんは京都に行ってしまった。食べるものさえあれば餓死しないから、生きていくことだけ考えるのであれば畑を耕して自給自足すればいい、くだらない仕事は全部断って生きていこうと決めて日の出村に移ったの。それで20代が終わった。
PROFILE
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- 作家
- 田島征三
1940年 大阪府堺市で兄征彦と一卵性双生児として生まれる。
6歳から19歳までを自然豊かな高知県(6~11歳 芳原村(現春野町)、11~19歳 高知市朝倉)で暮らす。この時期に、小川で魚を手づかみで持ったりした時の、生き物が掌の中で暴れる感触は今も創作の根になっているという。
多摩美術大学図案科卒業を機に手刷り絵本『しばてん』を制作する。1969年に東京都西多摩郡日の出村(現日の出町)に移り住み、ヤギやチャボを飼い畑を耕す生活をしながら、絵本などの創作を続ける。
新しい画風を生み出そうとし続けていたところ、ナスカの地上絵の写真を見て新境地が開ける。従来の絵本とは大幅に画風が異なる絵本『ほら いしころがおっこちたよ ね、わすれようよ』を出版する。(1980年)
1989年に日の出町に残る最後の美しい谷間が第2の巨大ゴミ処分場計画候補地になっていることを知り、夫婦で反対運動をおこすことを決意する。森の中で反対運動をしている間に森の植物や小動物との連帯を強く感じ、インスピレーションを得る。
胃がんを患い、胃の2/3を摘出する手術を行う。転地療法のため、伊豆高原(静岡県伊東市)に移住する。(1997年)手術後、体力をつけようと森の中を歩いていた時、シロダモ大木に呼び止められた気がしてふと立ち止まる。翌年の秋、その実を集めて制作した絵本『ガオ』を出版する。
その後、絵本を作りながら、木の実や流木などによる作品を発表し続けている。
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