© SPINNER. All Rights Reserved.
執筆者別アーカイブはこちら

空気の日記

藤倉めぐみ

  • 10月6日(火)

    陽の鋭さはあっても空気は冷たく乾いてきました。わたしはそうやって剥がれ落ちていきます。長袖なんて着てしまう季節は剥がれ落ちていくんです。

    わたしは秋に生まれたので、秋の訪れは、特別な場所で浸み込ませてきました。海の近くに住んでいたので、秋の海を、波の音を浴びていました。海のそばではしがみつきたくなったこと、星が早く動いたことを思い出します。

    秋はきっと贈り物の季節で、不用意な歪みもその中に含まれます。わたしはもう誰かの名前を忘れられるぐらい大人になったので、もう名前を忘れたあの人が「大事な人の贈り物にはおもちゃの蟲を箱いっぱいに詰めて贈りたい。だって面白くないですか」と言ったこと。あの時、おかしみもあたたかさも一欠片として感じなかったのだけれど、もしかしたら今、君からその蟲をひとつまみずつ放り投げられていることがわたしの悲しみの素になっていて、そうやって投げられれば投げられるほど、不用意に簡単に踏み外して君をえぐることがわたしにだって出来てしまうことがとても悲しい。

    そんなことよりも一番大事なのは、本当にすることは、「目の前に立って下さい」ということだけでしかなくて。何よりも真っ先に「目の前に立って下さい」という時に来ているのに、それを難しくさせているものは、何者なんでしょうか。

    今日は夏に作った梅のジャムと、この前作ったイチジクのジャムと、今年出来たばかりのお米と、古米で作ったお味噌と、もぎたてのカボスを、抱えるのがやっとなぐらい詰めて、遠くで笑うあの子に送りました。とても重くてたくさん動き回ったので、今夜はゆっくり眠れそうです。

    大分・耶馬渓
  • 10月28日(水)

    実りを過ぎた地には黄灰色が重なるようになり
    鮮やかさよりも寂しさが濃くなる山に
    遠くから訪れる人も多くなって
    誰も彼も口元も首元も足元も覆わせて
    通り過ぎる

    そういえば昨年の今頃は
    足繁く東京に通い
    連日連夜、映画館に籠り
    8日間で39本
    ただただ銀幕と向かい合わせでいた秋は
    私の届かなさもあの人の届かなさも交差していた
    いつかの秋になった

    今日は小さな映画館で一人
    早々にあの胎内の中で
    ぽうっとまどろんだ

    一瞬を満杯に浸して
    目も耳も鼻も口も皮膚も
    小さく枝分かれさせて
    どれもこれも吸い込ませて
    根は生えていたのだなと
    触れてみる

    かかと
    つちふまず
    つまさき

    かかと
    つちふまず
    つまさき

    この先にまだ根が生えて
    知らない船にも運ばれて
    今はこの足を
    海に浸すことをたくらんでいる

    大分・耶馬渓
  • 11月19日(木)

    夜明けの訪れが遅くなって
    目を覚ましてもまだ、夜が離れないままでいる
    青暗い空に、山の輪郭だけが灰色に滲むのを
    布団から見つめるのが好きだ

    乾いた秋風と朝夕の冷たさが厳しくなるほど
    あか、だいだい、きいろ、ちゃいろの
    山の装いが増して

    今年は
    ひときわ 紅葉の色づきがよく
    ひときわ 観光客が訪れている

    もう、こんなにも欲しい
    外を
    色を

    「木は 人が好きだよ」
    と言われたことを思い出す
    きっと木にあたためられている

    ひらひらの
    ぱらぱらの
    落葉を
    せいいっぱいに集めて
    ごろごろに寝転んで
    かさかさに埋もれたら
    もう笑ってしまうしかないね
    だって、秋がちらばっている

    ねえ
    触れ合わない唇で味わえるものは
    もう全部、味わい尽くしたんじゃないかな

    ねえ
    まだあるのかな

    大分・耶馬溪
  • 12月11日(金)

    随分と寒くなり、訪れた冬の輪郭を指でなぞるようになりました。息は白いですか。イヌイットは向かい合う相手に白い呼気を放ちそれを相手が吸い込み、お互いに繰り返すというのを聞きました。息が躍ること、身体が劇場になることが耳から私の中に入ってきて、息の所存がどこにあるか分からない今、それはより一層遥かで、ほんの少しの尾ひれすらも呑みこみたいほどの憧れです。

    彼の地に行ってきました。私の住むところでは人と人の密度が取れる分だけ近くもあるため注目点の空気を持ち帰ることは正直、罪と等しいことだと思います。衝動を愛し衝動に引っ張られて生きてきた私は、たやすさにまみれてざらつきを失いつつあることが分かっていた私は、観念するしかない揺さぶりを秘密にしました。

    みっちりと口元、鼻元を覆うことは都市と里の空気を均一化させる同類項になり、通過しない苦しさと引き換えにどれほどか分からない安らぎを手に入れることは、居る場所の差異を生まなくなることかもしれません。

    私はかつて誰でも見つけることができました。人を強くとらえてしまうから、いくらでもどんな人でも雑踏の海の中で察知することが出来ていたのに、鼻と口が覆われると目も利かなくなりました。相手の顔が分からなくなるだけではなく自分の感度が完全に塞がられるのです。それを高い密度の中で知りました。

    求めていたものは求めていたことにふさわしく、佇んで踊ること、踊り子がそれまで踊りつけてきたその地点を見ました。青い空も赤い空も揺らめいたこと、止まっていても踊る指先を振り返ります。

    私はもっと震えてもいいのに震えることができないことにとまどってばかりいます。たやすさと引き換えに失ってしまったもの、代わりに降ろしてしまった大きな岩があるように思うのですが、我が身、我が心、我が女、我が少女に傷を負わせることを、もうしたくはないので、その岩を削り型取っていくこと、その岩を砕き笹舟に乗せることに、付き合っていこうと思います。

    念願の海はみち潮の白さが浮かびますが、私の思う海は砂浜がないと海をもたらさないようでした。それでも暮れなずむ橙色の中で、私は涙を流しました。触れ合うということはいっぱいで、どうしたっていっぱいになってしまうのに、どうして泣くのなんて分からないから涙は出るのだと思います。

    そんな全ては今はまだ罪で、着々と増える数字に突き進んだ私は彼の地と同じようにマスクで空気をふさぎ、彼の地と変わらぬ呼気を最小の単位にとどめようとしています。

    朝、役目を終えた柚子の皮を畑に埋め、土に還りゆく柚子の上に脚立を立てて、新しい柚子をもぎました。深く深く吸い込んで。

    大分・耶馬渓
  • 1月2日(土)

    大つごもりとともに
    冬の空気が適切に訪れて
    雪の降る山の中で
    積み重なった松葉を掃いた

    我が家の墓は山の中にある
    落葉を整えて
    吐くだけで吸ってもらうから
    墓は嫌いではない

    健全な寒さがやってきて冬支度に勤しみ
    ぬくまった布団から出た頭だけが冷える

    闇に白い呼吸が浮かぶ冬を
    冷気にさらせば血がうごめく冬を
    嫌だと思ったことがないから
    きっと好きなんだろう

    密という字が広く擦りつけられたのは
    年が切り替わる前の昨年で
    密接の字が飛び交っても
    手垢にまみれていることのように思うのに
    密やかさが広まったのであれば
    面白さを感じている

    密の字の由来は霊廟に武器を置き
    安寧をひそかに祈っている姿から来ているらしい

    密やかさを武器に
    つなぎたい手をつなぐ術を覚えて
    つきたてのおもちを食べたがる君の手を握る

    手足を縮こませることが適応することで
    誰かの為すことに喜ぶ範囲も狭まる
    全ての後に
    しかたがないとつきそうになるが

    鳥が眠るように
    花が落ちるように
    道が凍るように
    その通りになることを見つけることなんだろう

    唇の前に指を立てる
    縮こまった手足は失われていないし
    キャッチボールの陣地もなくなっていない

    春に小学校に上がる男の子が
    「緊急事態宣言が発令されました」と元気よく言い
    黄色の折り紙で作ったメダルを配っていた

    ※東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県の1都3県の知事は政府に緊急事態宣言の発出を速やかに検討するよう要請した。

    大分・耶馬溪
  • 1月24日(日)

    痛みなく上滑る今日は曇天で
    手にするもの目にするものがつるつると滑っていく
    制限をかけて素直に減っているらしき数字を追っても
    ぽたぽたと滴っていく
    そういえば数字ばかりを観察する習慣ができた

    これはもしかしたら
    悲しさなんじゃないだろうか

    悲しさは 
    悲しいと思う私がいて
    悲しさになってしまうのだけれど
    今日の私は軽やかさでも楽しさでもなく
    悲しさを選んでいるのだと思う

    曇天を見上げて歩けば
    頭の重みに沈んで湾曲していた首が驚いて
    歩くごとに反対側の軌道になじんでいく

    涙がこぼれないことよりも
    知らない筋道に気づくこと
    解放をたぐることの方が
    ずっと大事だ

    空の雨は止んでも
    山が水を含ませて
    湧き出てくること
    湿り気のある土を
    踏みかためること

    何にもない場所にある何でもあることが
    今日もまた囁いているのに
    遠ざかる約束の音が
    ずっと大きい

    大分・耶馬溪
  • 2月15日(月)

    洗面所の透かしガラスから
    ウグイス色の鳥が梅を啄んでいるのを見た

    ずっと花びらを啄んでいると思っていたけれど
    芯にくちばしをよせて蜜を吸っていた

    ウグイス色の鳥はウグイスではなくメジロだった
    ウグイスはもっと薄茶色の鳥で
    ウグイス色はメジロのものだった

    一昨日、大きな揺れが福島を中心に起こって
    あちらこちらにぽつぽつと声をかけた

    そういえば10年前には声をかけられる側だったのに
    今は別の岸にいる
    どの岸にも心は置いておきたくて
    書くということも
    ひとかけらの心を置いていくことのように思う

    そういえば昨年はオリンピックをやる予定で
    そういえば今年は東日本大震災から10年で
    そういえばオリンピックは東日本大震災の復興という名目で
    ゆがみにゆがんで埋もれていった

    東京で一人
    家のテレビをつけて見た
    あの赤さを
    あれはなんなのだろうと思っているし
    まだ何も許していない

    日々のひずみが皮膚のひずみに変わって
    皮膚という皮膚にありったけ爪を立てて
    神話から遠ざかって白ませた

    震えが届けば
    どこだって地続きなのだから
    等しくのしかかる
    何も何も何も許してはいないと
    ガジリガジリと歯を立てている

    見つめるという時間が私にはある

    私と同じ髪型をした10歳のあの子が
    ピンクのはさみを手首に当てて
    ちりちりと皮膚を削ろうとしていた

    「だめだよ、そんなことしたら悲しいよ」
    「なんで。私は悲しくないよ」
    「あなたがあなたを大事にしなかったら私が悲しいんだよ」

    そんなことを言って
    とても消極的にかるた遊びをした

    大分・耶馬溪
  • 空気の日記
  • エマらじお
  • 交換日記 凪
  • utakata
  • Spiral Schole
  • 妄想ヴォイスシアター
  • アトリエおよばれ
  • TEXTILE JAPAN FOR SPINNER
  • TEXTILE JAPAN FOR SPINNER