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空気の日記

石松佳

  • 4月7日(火)

    春のニュースが流れる執務室はしんとして
    みな少し俯き
    静止しているように見えた
    窓を開け放っていたので
    航空機の音
    それから鳥の鳴き声が聴こえてきた
    羽のあるもの
    誘惑をする
    ✳︎
    飛行機雲が見えない
    けれども
    先日買った古本が
    ポストに届いていた
    『在りし日の歌』の復刻版だ
    中也の帽子は
    羽のようだから
    この空にみずから飛び立つことだろう
    ✳︎
    子どもの頃
    空気の色が透明だから
    透明のことを「空気色」と呼んでいた
    決して目に見えることはないが
    春は羽ばたき
    遊歩道に
    花びらを散らして
    たくさんの証拠を残した

    福岡・博多
  • 4月30日(木)

    昨夜、クラシック・ギターの弦を張り替えた
    十年近く前に買って
    少しだけ弾いて
    すぐに飽きて
    それから
    ずっと部屋に置いていたものだ
    ずっと部屋にいるのだから
    今夜
    また弾いてもいいと思えた

    子どもの頃は毎日弾いていた曲
    今弾くと
    喪失しているはずなのに
    指が憶えているということがある

    記憶とは
    指から伝わる感覚のことではないか
    この季節に触れ
    わたしは
    何を忘れ
    何を憶えているのだろうか

    福岡・博多
  • 5月23日(土)

    街に少しずつ
    ⾳が戻ってきた


    バス
    喋り声
    キャッチボールの乾いた⾳
    庭の⽔遣り

    けっして⼤きな⾳ではないが
    今の⾝体には
    繊細に聴こえてくる

    街は
    ⼩さな⽣き物のように
    ゆっくりと
    ⼿探りで
    息遣いを取り戻そうとしているのか

    昔 ⽷電話をすると
    あなたの声が
    震えながら
    ⽷を通して
    紙コップを通して
    伝わってきたことを
    思い出した

    福岡・博多
  • 6月15日(月)

    湿度が高く
    マスクをしていると
    少し息苦しい
    これは多分
    空気に
    自らの呼吸に
    溺れる感覚だろう
    春は桜を見ることはなかったが
    梅雨に入り
    紫陽花は体温があるかのように
    上手に咲いている
    今 物事を
    見つめている
    直喩の目のことを
    もっと知りたい

    福岡・博多
  • 7月8日(水)

    雨の後の晴れ間に
    蝉の鳴き声が聴こえた
    食堂で同僚と
    雨が降るときも
    蝉は鳴くのだろうか、
    と話をした
    調べてみると
    雨の日のような
    気温の低い日には
    蝉は鳴かないのだそうだ
    蝉が鳴くのは夏だけである
    雨の降る日に鳴かないのであれば
    蝉が鳴くのは夏の晴れた日だけである
    あれからずっと
    晴れ間を希求していた気がする
    セルフ台の上の
    麦茶が入った湯飲みにはラップがされており
    少し温くなっていたが
    定食を乗せたトレーに
    本日だけのサービスだよ、と
    西瓜が振舞われた

    福岡・博多
  • 7月31日(金)

    梅雨は明け
    七月最後の日
    夏休みを取得して
    美術館に来ている
    入り口にはカメラが設置されており
    モニターにわたしの姿が映し出され
    その上に体温が表示された
    わたしは36.1
    わたしの後ろの男性は35.9

    館内に入ると
    椅子が二脚あった
    一ヶ月前であれば椅子は全て撤去されていたが
    一時期落ち着きを見せていたから
    二脚だけ設置されたのだろう
    また明日にでも撤去されるかもしれないと思い
    意味もなく椅子に座った

    館内の壁には東南アジアの作家が描いた
    大きな地獄極楽図が飾られている
    地獄では
    炎の牙を持つ獣の口から炎の獣が現れ
    無限に続くように思われた

    その炎はおそらく
    わたしが持っている
    36.1度の熱に通ずるものだ

    ずっと椅子に座っていた
    ガラス窓の向こうの
    夏雲が眩しすぎる

    福岡・博多
  • 8月22日(土)

    夕刻前に
    少しの間だけ雨が降った
    晴れているにもかかわらず

    そういえば天気雨のことを
    子どもの頃は狐の嫁入りと呼んでいた
    時が経って学生になり
    俳句の中だったか
    日照雨、という名があることを知った

    通りを歩く人は
    みなそれぞれの感性で傘を差している

    眩しい陽光の中で
    傘がいくつも揺れ動き
    夏がこのまま
    消えてしまうのではないかと
    思ってしまった

    福岡・博多
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