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柏木麻里
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4月20日(月)
雨にとざされていると
この林は
ただでさえ最近
おとぎ話めいてきたというのに
なおさら
木こそが世界の霊長であるという
彼らの優しい確信を伝えてくる中に入ってしまえば
それはもうおとぎ話ではない
ほんとうのこと切り株のあかるい色をした切り口から
紫陽花のやわらかな若葉から
人が退いた分だけ
見たこともない顔をあらわした雀たちから
はじまっているのは
まちわびていた
ほんとうのことノアの方舟に
窓はあったのだろうか
人も動物も
みずみずしい目をみはり
雨を眺めながら
洪水の後を待ったのだろうか今日はいつか
古代と呼ばれるようになる遺跡ははじめから遺跡ではない
この早く来た初夏の緑色世界の中で
新しいほんとうが生まれようとしていることを
わたしはおぼえていられるだろうか※ 「散歩」という言葉の意味が、それまでとは違ってきた頃。自分の暮らすエリアの外にも広がる、静かな逼塞、閉塞の気配。人間が後退し、それ以外のものが大きくなる。すべてを一歩一歩、新しく生きている感じがあった。
千葉・市川 -
5月13日(水)
午前のニュースから聞こえてきた
銀座というのが崖の名前に思えてくるそこへ行けないことはわかっている
でも、なんで行けないんだっけ一番可能性が濃いのはそれがもう失くなってしまったから
通り過ぎた信号の色みたいに、そう点滅する
それとも銀座とは
アトランティスとかパンゲアとか
宝の在り処を×で記した
だれにも解読されない
端のめくれた茶色い地図にしかない場所なんだったっけううん、それはあるんだけど
今日もにぎわって、明るく平らな
ガラスのように澄んだ几帳面な四角い灰色の敷石を
靴がいそがしく渡ってゆくのだけど
こことは時空が違うのです
だからわたしは行けないんですほんとはもうないんでしょ
もう世界は全部崖の名前になってしまって
パラレル宇宙の任意の時代と場所の
博物館のガラスケースに収まってしまったんでしょ
今年はやけに葉が茂ってお化け楓みたいになった
楓のそよぐ
ここしか
もうほんとうは世界ってないんでしょ※ ステイ・ホームの日々を重ね、日常を彩っていた街が失くなったような気がした。しかしまだ、すべてはファンタジーめいている。世界全体を包む危機、現実感を支えるために手に触れられる場所が、どこにもないからだろう。
千葉・市川 -
6月5日(金)
二ヵ月ぶりに電車に乗り、三ヵ月ぶりに美容院へ行き、いつぶりか分からないくらいに、素敵なお店におずおずと入り、飲茶を食べた
街を歩く人の数はもうふつう
少しだけ怖いのは感染のことではない
人々は、もうしっかりと鎧のように属性を着て歩いている
学生服、ネクタイ、バックパック、ゆるいワンピース
私だって同じ
朝、なんとなく「社会」を意識した頭で服を選んだら、何を着たらいいのかちょっとわからなくなった
ついこの間まで、散歩で出会う人々は、みな「おうち服」を着ていた
少し離れて歩き、ぴったりくっついているのはいろんな年代のカップルばかり
あらためて生物としての番(つがい)を、遠くから川縁の道で確認したでも今日、街では人々がひとりずつを背負ってひとりで歩き、属性をちゃんと着込んで、とりつくしまのない顔で歩いていく
そこに感じるほんの少しの威圧感と臆病さを、私はこれまで我慢していたのだろうか電車に乗る人々、街を歩く人々はもう以前のよう
でもマスクだけが
呪いにかかった絵本のように
そこだけがまちがった絵のように
服装も属性も別々のみんなにつけられている
まちがった絵本の中で、ほんらいなら笑いを誘うレイアウトであったかのように飲茶を食べたお店の内装は居心地が良く、気持ちが引き立つくらいに適度にきらびやかで、けれども、ここにも慣れない感じがつきまとう
お店だと頭ではわかっているのに、誰かの家の居間にいるような奇妙な気分
家以外のいったいどこでありうるだろうか、こんなに燦々と日が降り注ぎ、外の木々が「安心していいよ」とそよぎ、私が寛いでものを食べるのはお店の入り口でも、注文を取る人も、とりわけ丁寧に、いやむしろうれしそうな顔で迎えてくれて、きっと人が怖いだろうに申し訳ない気持ちで不思議になる
けれど立場を変えて考えてみると、マスクをして次々とやってくる人々は、生き残った人々であり、お店を忘れずにまた来てくれた人たちに見えるのだろうと思った
私が迎える側なら、きっと次々にとことこやってくる人々は、一人一人であることを超えて、胸をきゅっと摘まれるような愛おしい「景色」に見えるだろう
それは鏡になって、生き残った自分と場所をしみじみと感じさせるのかもしれない久しぶりに食べる「外の味」の複雑さに、細胞がこまかくなる
これは生姜とにんにくが入っている、そこまでは分かる、でもその後ろからやってくるこれは何?
辛かったのに、喉を通ってしばらくすると口の中が突然甘くなるのは何?
文化という言葉が、饅頭を噛む頭の後ろの方に、ゆらゆら浮かぶ
でもさらにその後から形容しがたい気持ちがわいてくる
それは後ろめたさのようで、もう少し白けたような、おやそんなものがいたのか、と思うような感情
家のごはんは自分が作っても夫が作っても、すみずみまで何でできているか食べながらわかる
それに比べてこの飲茶は文化を感じさせるのだけれど、これ、ときどきでいいなと思う
そして私はそんなふうに思う人だったかなとも訝しく
細胞はここまでこまかくならなくていいのかもしれない
もっと、餅米とお水でできているお餅のように呑気でいいのかもしれない午後早い地下鉄はとても空いていて、いろんな電車の内装が新しく変わっていた
オリンピックにやってくる世界各国の人々を乗せようとはりきっていたのなら
事情を知らない車両も
新しいシートも床材も
がらんとしてまるで何か悪いことをしたので
当たるはずのよいことを、働いてよろこばせるはずだったことを罰として取り上げられたように
ぼおっと空虚なままで
不憫だ
説明してあげたい
あなたがたが悪いのではない※ 緊急事態宣言後、初めて電車に乗って街へ出た。以前は当たり前の光景であった、制服やスーツ姿が、役割という武装に見えた。「人間」のあり方、感じ方の、一つのターニングポイントであったのかもしれない。
東京・表参道 -
6月28日(日)
数日前から、ノートパソコンをMacに変えた
そこにOfficeを入れて、この日記もWordで書いている
マウスでスクロールするのがWindowsとは上下逆、よりも戸惑うのは、
キーボードで入力する時の予想変換がシビアだということ
シビアというのは、キーを一つでも間違えると、書きたい単語が選択肢に上がってこない
きびしいな、わかるじゃん、文脈で、と思うそこで気づいたのは、仕上がりとか、
磨き上がりみたいなものへのイメージが変わっていたことなんとなくとか、似たようなもので済ますことが、いやじゃなくなっていた
最近(オンライン朗読会で)知り合った中欧や中東や東南アジア詩人たちの投稿をFacebook翻訳で読んで、不自由を感じない(これは人に言わない方がいいのかもしれないが)
自分が雑になったといえばそれまでなのだけれど
そもそも発音すらわからない、遠いところにある言語の詩を、一秒で読めるのだから、そこにあるのが「古い歌」という言葉で「失われた夢の道を歩くとき」※1 と言っているのだから、それでいいではないか、というような気持ちSkypeやZOOM越しの出会いの数々は、もどかしさよりもむしろ、
液晶の向こうにいる世界各地の人たちの暮らしぶり、部屋の様子に飽くことなく惹かれて、
その小さな窓の向こうの息づかいにチューニングしようと
自分の気配を澄ませてきた
不自由さの代わりに与えられたのは、
液晶の向こうにある、たくさんのスープのようなもの
人の家に入ったばかりの時のような、かぎなれない匂いがして、
部屋の、家の、家族の、その人の味がして
それはみんな食べやすくて、体にいい
名前をきいても、きっと答えられないスープ日々の食料品も、近似値で進行している
食べたいものよりも、数日おきに夫がスーパーに行ってくれるので、
野菜売り場や肉・魚売り場、お菓子売り場なんかの映像を思い浮かべ、
たぶんこれがある、と予想してメモを書いて渡す
しかも人に頼んで買ってもらうわけだから、なければしょうがないし、
似たようなものでもO K!となる
お花を買ってもらうのも、自分で選べないから、かえってどんな花がやって来るか、くじ引きやおみくじみたいに待っていたとても多くのものを、家にいて、へだたりの向こうから
遠い山の電気を届ける鉄塔みたいなものをいくつも介して
手に入れてきた
届くのがたとえ、どんぴしゃではなくて似たようなもの、であっても
それは怖いものから守られるためにしていることだから
綿のように暖かいそういう暮らしに慣れていたことに気づく
でも、自分に対しては、その綿のやわらかさを生かせない今日は一日中、期限が迫って書かなければいけない仕事の量に弱っている
自分に対する要求や、人には見せられない矜恃みたいなものは
人々や世の中への適応よりも遅い
動きにくくなった体で、ここまで行かないと、これくらいはできないとと
バージョン遅れかもしれない古い期待をかけている
アップデートのアイコンはどこにも見つからない
自分の外の流れと内の流れが、一つにならない潮のようにずれている※1: クロアチアの詩人、Ivan Španja Španjićさんが6月28日(日)午後10時過ぎ(クロアチア時間では日曜日の午後3時頃)に投稿した詩の一部
※ Zoomによるバーチャル朗読会を重ね、画面や電波状態など、様々なことの「完璧さ」がなくても、一向に気にならないという新しい状態が、この頃始まった。この日、世界の感染者の累計が一〇〇〇万人を超えた。
千葉・市川 -
7月21日(火)
鳴きはじめた蝉たちは
鶯の初音のように、ういういしい
土用の丑の日の今夕
鰻を食べた夫が仕事帰りに鰻を買ってきてくれた
このひと月、ほとんど外出していない私には
外界のことは、想像に思い描くだけ
だから今日、夫は
職場で仕事する人ではなく
鰻の狩人である私はといえば
家で校正しながらゆっくり一日を過ごして
鰻を待っていた
東京の感染者数は237人
日が傾く気配を窓の遠くに感じるように
このごろは
地球のまわりをいくつかの大きな円がめぐっている今年もまためぐり来た
蝉のあらわれという、透明な初夏色の円土用の丑の日という
鰻を食べる時にだけ口にする旧暦の今日が
太陰暦の中に抱かれながら
太陽系をめぐる、たゆみない軌道COVID-19の円もめぐっている
大きさのわからない軌道は
このところ逆まわりをはじめたのか
それとも小さな誤差を飲みこんで
軌道が自分で決めたとおりに、順調にめぐっているのかそして私ひとりの円もまためぐる
不思議なことに
私にはこの円がいちばん大きな軌道なのだ未来に私たちは、箱の中の迷路を右往左往するネズミを眺めるように
こう言われるだろう
「この時、人類は、悲劇の規模をまだ知らなかったのです」あるいは、
「人々はすぐ先に希望のあることを、予見できずにいたのでした」知ったことか
私は鰻がおいしいんだもっとうんと未来に
宇宙考古学者は、私たちをこう呼ぶだろう
あの南の空の星座は、
鰻の狩人座と、家で校正する妻の座です※ 土用の丑の日。この日、日本ではレムデシベルに続く第二の治療薬として、「デキサメタゾン」が承認された。
千葉・市川 -
8月13日(木)
もうじき訪れる
端正な
雷雨を
待つ木々もわたしも
それを受けいれて木は色を濃くして身をかがめ
わたしは室内に
午後遅い蝋燭を灯して聴きなれた蝉の声の中に
かぼそい
ツクツクボウシを聴いたのは昨日明日
友人に会う
まったくちがう生き物になって
脱皮して会うふたり
待ち合わせるのが少し
気はずかしい窓の外には
伸びすぎた百日紅が
花束のように広がる十方世界
充足していないものは
なにもない※ 東京の新規感染者は二〇六人。四日連続で三〇〇人を下回る。南米アンデス山脈で、標高六七三九メートルの高地に生息するネズミが発見され、哺乳類の生息高度記録が大幅に更新された、と報じられた。
千葉・市川 -
9月4日(金)
日が西から
南へ回った
なにかを盗むように
そっと、すこしずつまぶしくなってきた
南窓の光には
透明で、情け容赦のないものが
隠れている無力だった子供の私が
黙って砂のように
奪われていったものを
助長する種類の光いのちを盗まれている夏は
声も上げられずに
叫びの口の形をして
最後の子供を産んでいる百日紅の花房には
まだ緑色のつぼみがいっぱいだ※ 東京の新規感染者一三六人。沖縄県独自の緊急事態宣言が解除。世界の感染者数が横ばいになり、アメリカやブラジルで減少に転じた。「GoToイート」の地域限定食事券の発行事業、九月中開始の見通しと報じられる。
千葉・市川
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