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空気の日記

柏木麻里

  • 9月26日(土)

    いつ、どこにいる
    日記を書こうとして
    どこにいるとは
    どういうことかと
    考える

    雨の中にいる、Yes
    新幹線の中にいる、Yes
    街と街のあいだにいる、Yes

    どこかにいる時
    どこにいられるのかと
    考える

    雨粒の中に、Yes
    雨粒よりもずっと小さな
    ウイルスの霧に包まれた星の上に、Maybe
    星を見まもり続けてきた月の眼差しの中に、Yes
    月の向こうの凍てつく沈黙の中に、Yes

    そして星々のような細胞や
    腸内フローラの
    知り合うことのない花畑と共に、Yes

    ここには小さく復活してくるものばかりだ
    生きているから

    車両の細かい振動に身を委ねながら
    自分の小舟の舵をとる

    鎧姿の若武者が落ちのびようと
    沖合で待つ助舟に馬を向ける
    しかし、汀から敵方の武者の声
    「あれはいかに、よき大将軍とこそ見参らせて候へ。
    まさなうも敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へ、返させ給へ」
    扇を上げて招かれて
    ここを先途と馬を返す
    なにもかもが乳色に見える
    その同じ海に
    私も舵をとる

    考えてみれば
    星は雲によって地上を諦めない
    星と地上は千年続く雨の間も
    信頼を失ったことがない

    その星と地上のあいだを
    いま
    時速285kmで
    東へ進む途上

    新幹線車中にて
  • 10月18日(日)

    新しい本を日本語と英語で出版した
    それは国内だけではなく、海外にも届けたい人がいるからだった
    けれどもいま、航空郵便では書籍を含めた小包を送ることができない
    飛行機の便が減っているからだ
    船便ではアメリカまで4か月かかる
    本を英訳して下さった、本を一緒に作った翻訳家ご本人にさえ、やっと数冊をDHLで届けおおせるために、何人もが知恵を絞り、とても時間がかかった

    ベネズエラの詩人に一冊を送りたいと思って日本郵便のホームページを確かめる
    すると船便小包はおろか、封書一通さえ送れないことがわかった
    これは新型感染症のためではないらしいが、よくわからない
    詩のやりとりをする中で、彼女が書いてくれた「hope」という言葉は
    私が何年間も待ち望んできた言葉だと思う
    その4文字をじっと見る
    それは私によろこびを運んでくれて、心を柔らかくしてくれて、あたたかくしてくれた
    でもhopeの後ろにあるスペイン語を、私は知らない
    hopeと書く彼女の後ろにある街の様子を、私は知らない
    hopeと書いてくれる人にこそ届けたい本を、いつになったら、どうやったら送れるのかもわからない
    彼女の指に、この本のあたたかい紙肌を触れさせることができない
    できない
    もどかしい

    できるはずだと思っていた

    英語でこの本を読んで欲しいと数年越しに願ってきた人はいま、地球の反対側の島に暮らしている
    彼がいるという青い空と青い海と暖かい風を想像しようとするが
    それはどんな気持ちがするのか、到底わからない
    この4月から6月の間に貰った、ほんの数通の便りの中に彼が二度も書いた「crazy」な状況という言葉
    そのcrazyを私は理解していたのだろうか
    彼はその言葉を書いた時、どんな顔をしていたのか

    こだま、ひかり、のぞみ
    速いものを並べた新幹線の名前に、いま
    ことば、とつけ加えたいくらいに、AI翻訳は速い
    一文字そこに置かれただけならば、文字とさえわからないかもしれない言語の長文を
    一秒もたたないうちに伝えてくれる
    でも、一冊の本という物体を送ることが、こんなにもできない
    その物体でなければ、どうしても届けられないものがある
    最後のページにある詩を、ページをめくって、いま彼女に見つけて欲しい
    それはいまの彼女のためにある
    この本の重みが、自分が私に与えた恵みなのだと、彼に知って欲しい
    それができない

    hope、crazy
    何十年も知ってきたこれらの単語を前に
    それをどんなに見つめても
    わからない
    あなたのhopeはどれほどに危険に包まれていて
    あなたのcrazyはどれほどに苦しかったのか
    わかることができない
    ぶつかる、躓く、行き止まる

    ※ 日々の暮らしを変え、行動範囲を小さくして適応してきたつもりの何かが、国際郵便が送れないという一つの状況に出くわして撥ね返る。撥ね返ることで、囚われの檻の壁に内部から気づく。東京の新規感染者一三六人。

    千葉・市川
  • 11月9日(月)

    宝石の意味をあらわす言葉は
    花言葉のように
    石言葉というのだろうか

    ものに意味がある

    タンザナイトの意味は「転機を助ける選択の要石」
    アイオライトの意味は「進むべき道を示す」
    グランディディエライトの意味は「新たなる冒険」

    ものに意味があるという考え
    石の中に織り込まれたクラック
    クラックが響きに姿を変えて続いている深い
    深い
    土、海
    海の中にいた生きものたちの瞳

    宝石の上に浮上する
    宝石の上に
    そのやさしい顔を出す

    ここはいつ?
    やがて空にかかる月が二つになり三つになり
    七つになるまで
    待つ

    海の生きものは
    海の生きものの体の動かし方で話すので
    わたしはそれを待たなければいけない
    そこに自分のなにを同調させることができるのか
    目を閉じて自分のあちこちを探すのだ
    ここに言葉はない

    場所不詳
  • 12月1日(火)

    冬の朝の美しさがある
    それは角度として訪れて
    透く
    という言葉の
    別の面を示している

    朝の一文字は
    まるでそれが
    なにか輪郭のある、さだまったもののように
    ひとを惑わせるけれど
    季節が遷り変わってゆくと教えられるのだ
    朝は誰にもとらえることのできない
    推移する時間と光であることを

    ふと残る問いは
    それを教えているのは誰かということ

    6時から7時が生まれていった
    そのどこで今日の朝が現れたのか
    私は知らない

    朝のことを思って浮かんだのは
    脳のMRI写真
    理科室にあった人体模型の脳は、カチカチ
    くっきりした、どこか陽気な固まりで
    皺にも決まった形があるように錯覚していた
    (だって模型の脳は、ただ一つの形していたから)
    でもMRI写真が見せてくれた
    それはやわらかい
    さだまらぬ
    これはまちがいなく、ひとりひとり個性があるものと確信させる
    みごとなほどのやわらかさは名づけようのないもので
    私を魅了した

    そんなふうに
    今日の朝もある
    かならず来るが
    どこからどこまでが朝で

    という一文字の限りある姿の網にとらえることはできない
    ゆるやかなもの

    疫禍のことを考えながら
    今日のような冬の湖をのぞきこむようにして
    日記を書こうとすると
    春先から変わらずそこに映るのは
    古代と未来
    光陰という言葉の
    いん、の響きが
    星の光のように遠い過去から
    まだ消えない

    ※ 新型感染症による国内の死者が一日に最多の四十人となり、重症者も九日連続で最多に。大阪の市立病院で、感染拡大による看護師不足のため、がん治療などの一部病棟が閉鎖される。流行語大賞が「3密」に決まる。

    千葉・市川
  • 12月23日(水)

    新型感染症について見聞きする
    頻度の高い言葉は
    変わってくる
    このところは「曜日最多」という
    去年の今ごろ聞いたら
    まったく訳がわからなかったであろう言葉
    そして「ワクチン」

    ワクチン、がどことなく底光りしてこわいのは
    ウイルスよりもなによりも
    人間たちの気配がするから
    持つものと持たざるものという音が
    「ワクチン」の語の響きの中に揺れているから
    さぁ、またあたらしい闘いがはじまった
    そう感じてしまう、耳の中で耳を澄ましている私
    光明であり助けの糸であるはずのものなのに

    棒グラフの第一波と第二波のスケール感を比べて
    こわいと思ったが
    今まさにいる第三波は、ちょうど倍々くらいの大きさを現わしつつあり
    この、第一波の山が小さく見え、今や第二波の山まで小ぶりに見えつつある
    大きさよりも、その小ささが
    こわい

    とはいえ
    例年
    年末にはすでにあちらこちらに春の色が兆していることに
    今年も気づかされている

    私の場合、本当に「冬」に打ちのめされるのは
    10月の終わりから11月にかけて
    冬そのものはまだどこにもいないのに
    長い夏がもう終わったことを思い知らされる季節が
    いちばんこたえるようだ
    紅葉?そんなさびしいもの何がいいの?と思っていたが
    実際に遅い紅葉がたけなわになると
    そのゴージャスさに歓声をあげ
    真っ赤な紅葉を見上げて
    くるくる回る
    ここにはなにも死んでいない
    衰えていない
    植物に色があることの豪勢さが傲岸なほどにゴージャスにきらめいているのだ

    夏のほそい残響が長い尾を曳いていた
    それがふっと消えた瞬間を
    生き延びれば
    また私は生命の魔術にやすやすと嵌まり
    幸福の肉と光と甘みを噛み締める
    そのようにつくられた生きもののひとつであることを
    噛み締める

    千葉・市川
  • 1月14日(木)

    昼間散歩に行った
    時々立ちどまっては、スマホに空気の日記を書きつけた
    そこには
    家の石鹸で洗うマスクの中にふわっとみちている
    甘い許しの匂いのことや
    視界に広がる春の光と
    マスクを外すと冬という現実を告げてくる枯れ葉の匂い
    枯れ葉と土を、その下から楽し気に動かす
    見えない生きものの誰かさんのことや
    ブロック塀の上で出会った
    誇り高い王様のような猫の
    生きている、そこにいる
    気配の強さが書きとめられていた

    でも
    さっき、迷った末、その文章を今日の日記にするのをやめた

    東京の新規感染者が1000人を超えた日も
    それがほどなく二倍以上に膨れ上がって2000人を超えた日も
    今夜のようには感じなかった

    逼迫しているという医療
    なにかよくなる要素はなにも見えない、今日の社会
    ひたひたと
    それがどんなにおそろしいことかが
    口の中に遠くから、味になってやって来る
    閉じた扉が限界まで膨らんでいるのを見る

    足元まで水が来ている
    日常のままの光景で水が進んでくる
    だれも教えてくれなかった、その日、その時をどう感じればよいのか
    どう対処したらよいのか
    その光景が、甦える

    親や親戚から伝え聞いた、
    身内の人が、どんなふうに戦争に行ったか

    思い出す資格が私にあるのかどうかもわからない
    いくつものことが
    映像になって押し寄せる

    今日はそんなおそろしさを感じた
    いつだったか、この禍いのはじめ頃に
    ニュースに釘づけで、これでは保たないと思った
    あの頃以来の
    胸がずっしり塞がる夜を迎えている
    たぶん決壊する
    夜全体からそう告げられている気がする

    そしておそらく
    個人の希望というものは
    それとは無関係なのだと知らされる
    春の兆しの光のように
    猫のように
    今日の私たちひとりひとりのように
    そうは言っても、
    それぞれの人生をその日
    あるいはその日まで生きるのだと
    知らされる

    ※ 東京の新規感染者一五〇二人。病床逼迫により、救急搬送の困難事例が十二月の二倍に。自宅療養中に悪化し死亡する事例が相次ぐ。政府は入院勧告拒否に対して懲役や罰則などの刑事罰を検討。WHO調査団、武漢入り。

    千葉・市川
  • 2月5日(金)

    夕陽が、ほおずき飴のように
    つやつやと、蕩々とオレンジ色に輝いて
    向こうがわへ沈んでゆく
    真ん丸なその姿は
    それ自体の照りによって輪郭が定かではない
    今日の夕陽の
    それが意志

    なのだとしたら
    わたしたちは
    そのオレンジ色の飴のような意志を
    どう受けとればよいのだろう

    大人になってから時折
    今日が
    春へ向かってゆくのか
    冬へ向かっているのか
    わからなくなることがある

    世界はいずれにしても
    太陽のフレアのようにして
    いやたぶん
    まさしく太陽フレアの一部として
    その意味において正確に
    咲いてゆく

    たいせつな人が、ひとり、またひとり増えた
    そう思う今日

    千葉・市川
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