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空気の日記

四元康祐

  • 4月10日(金)

    三十四年ぶりに帰国して、二週間の自主隔離を送っている。ミュンヘンの妻とFaceTimeで話すのが、唯一の社会的接触である毎日。

    スマホの小さな窓越しに
    妻のいる部屋を望む
    天窓から明るい光が射しこんでいる
    私はいない

    夥しい死の王冠に取り囲まれて
    笑い声を放つ老夫婦
    共に仰ぎ見た月はどこにあるのだろう?
    虚幌に倚りて妻に手を振る

    もっともそういう生活は、ミュンヘンでの日常とさほど変わらない。詩を書いている間はいつだって自主隔離だ。

    感染者数が増えるにつれて
    別の国になってゆく
    その国が元の国よりマシかどうかは
    死者にしか分からない

    この国では変化は常に外部より齎される
    黒船、敗戦、大地震……
    外からやってきて内に巣食う
    思想では動かないがウィルスには飛び上がる

    大声で喚き散らす人々を映し出す
    蛇の目、花の目、魚の目
    最も残酷な四月にも
    止まぬ生殖

    右眼で地上を愛惜しながら
    左眼で星々の瞬きの奥を弄る男が
    斜めに傾いだまま横断歩道を跛行してゆく
    有料レジ袋ははち切れそうだ

    散歩に出かける。緊急事態が出ても緊張感はまるでない。公園には家族連れがウヨウヨしている。みんな幸福そうだ。いつの間にか、ウィルスの目で見ている自分に気づく。

    若者の喉から吐き出されて
    春風に舞う
    犬を抱いた女の胸の奥にひそんで
    七曲の坂を上がる

    石油コンビナートの丸いタンクのてっぺんの
    赤く錆びたところに引っかかって
    海を見ている ……死は
    消滅とは違うと思う

    注:「虚幌(きょこう)に倚りて」は杜甫の五言律詩「月夜」からの引用

    横浜・久保山
  • 5月3日(日)

    他のみんなが日記をつけてくれるので
    僕は安心して
    日々の網目をすり抜けてゆく極微の切れ端にかまっていられる

    母の眼の縁ぎりぎりに
    ステロイドの軟膏を擦りこむ指の腹の感触や
    腹部エコー検査報告書に印刷された
    父の内臓の艶やかに濡れたモノクロームの光沢なんかに

    交番の入口の「本日の交通事故」によれば
    昨日県下で死亡したのは一名
    コロナの死を他のすべての死からことさら区別してみせるのは
    生者の勝手な都合というものだろう
    その刹那にはどんな物語も一つに交わる

    見えないジャイアント・パンダに引かれて
    横断歩道を渡ってゆけば
    王様ペンギンを二羽連ねたあの子が目だけ光らせて立っている
    社会的距離とやらに隔てられると
    なんだかいつもよりも色っぽく見えてくるのが不思議

    みんなが生き延びることに必死でいてくれるので
    僕は安心して
    日々の連なりからはみ出てしまう巨大なものを眺めていられる

    隣の婆さんがついにホームへ引っ越す朝がやってきて
    軽トラックが坂の下へと沈んでいった
    その後にぽかーんと残された
    空の青さなんかを

    横浜・久保山
  • 5月26日(火)

    男は空気を恐れている
    酸素はいい 人工呼吸器の管の先から
    直接肺に吸い込める酸素なら
    大気もいい エベレストの山頂に
    かかってる薄いのでも
    だが空気はだめだ 疫病すら
    包みこんでしまうこの国の真綿の空気は

    男は空気を憎んでいる
    空(くう)になら身を捧げたいと思っているのに
    この国の空気は空っぽにはほど遠く
    ぎっしり気分が詰まっている
    ねっとり肌に纏いつく
    全員で吸っては吐き出し吐いては吸いこみ
    それでいて目だけは合わせない

    腫瘍は69ミリに達しているそうだ
    それでも本人は気づかないものなのかと男は驚く
    時間の問題ですと医師が言う
    閉ざされた空間が内側から炸裂する光景を
    抗体のように肚に収めて

    男は空気に包まれている
    こんな時こそ人々は言葉を求めています……?
    言葉とウィルスの見分けがつかない
    最後まで営業し続けたパチンコ屋に二拝二拍手一拝
    窓際に聳えるペーパータオルの白い円柱の
    表面の凹凸が翳に沈むまで
    彼の手は無闇に宙を掻いている

    横浜・久保山
  • 6月18日(木)

    福岡に父を見舞う。入居している施設はいまだに家族といえども外部の者は訪問禁止なので、父が病院の外来検診に出かける時が唯一会うことのできるチャンスである。空港から(感染を避けるべく)自転車で施設まで駆けつけ、一緒にタクシーに乗り込んで病院へ行き、仲良く並んで熱を測られて、まずは採血と採尿から。検査結果が出るのに時間がかかってすみません、と看護師は詫びるのだが、むしろその方が親子二人でのんびりコーヒーなど啜れて有難いのだ。小一時間ほど経って、主治医の手が注意深く父の腹部をまさぐり、痛みは?と問うその声を完全に鼓膜がなくなっている耳元に口を押し付けるようにして僕が伝えると、父は短く「いや」と答えた。隣の薬局で大量の薬を分包してもらい、再びタクシーを呼んで施設まで戻ってその入口でお別れ。再び自転車に跨って、近所のスーパーでブドウを買ってきて施設の人に預けてから、炎天下空港へ。

    君は思いきり吹き出してしまう
    憑かれたように感染者と死者の数を数えつづける
    定時のNHKニュースを聞いて 君の口から
    吐き出された飛沫が

    ゼウスの隠れた雲みたいに近づいてきて
    僕の顔に黄金の夕立ちのように降りかかる……と思いきや
    ぴたりと宙で静止するのさ
    いまやどこのレジにも窓口にも垂れかかる透明なビニールカーテン!

    いつからそこにあったのだろう?
    表面は乾いているのに濡れたような光沢を帯びている
    垂直にそそり立った湖水
    それが不意に波立って君は危うく溺れかける

    ごめん、うっかり後ろのドアを開けたんだ
    滑走路の端の柵の上に
    張り巡らされた鉄条網のトゲが真昼の星々みたいに輝いているよ
    真新しいドローン禁止の看板が

    引き止めるふりをしながらこっそり片目で唆してくる
    あの空の青の裏側でなら
    好きなだけ釣り糸を垂れていられるって
    一瞬のチヌのアタリにこそ永遠は宿っていたのだと

    なのに君は、AEONから買って来た巨峰の房を差し出したまま
    ビニールの向こうに突っ立っているね
    必死で目をつむって……マジすか、
    念力で僕の口中にその果肉を送りこもうだなんて?

    福岡市東区にて
  • 7月11日(土)

    三週間おきの父の外来検診に合わせて再び福岡へ。今回は息子と娘も同行。ドイツから「ハカタのおじいちゃん」に会うためだけにやってきて、空港でのPCR検査と二週間の隔離(その間は毎朝体温体調をメールで保健所に報告)を終えた上での移動である。例によって老人ホームには入れないので、検診を終えた父を自宅の空き家へ連れて行き、そこでようやく孫との対面。だが老人は午前中の検診で疲れ果て、用意した昼食を一口食べただけで横になり眠りこむのだった。折しも九州は記録的豪雨。みるみる冠水してゆく荒れ庭と痩せ衰えた寝顔を交互に眺めて過ごす昼下がり。夕方、父を起こし、四人してタクシーに乗り込み、ホームに父を返して息子たちはその足で空港へ。僕はひとり歩いて無人の実家へ戻るつもりが、慣れない住宅街の迷路に迷い込んで全身ずぶ濡れになってしまう。

    蛇が這ってゆく
    刈ったばかりの芝生の上を
    水煙に包まれて、人の
    からだを脱ぎ捨てた直後の魂のように

    一メートルくらいあるでっかい蛇だ
    コップを

    逆さまにしていきなり上から被せられたようなものだろう
    香港は 中が空であろうと水であろうと
    息はできない

    釣鐘のような夕闇
    むしゃむしゃとパンを喰う横浜の人
    寅さんの筋はもう追えないが アジサイとなら
    まだお喋りができる

    雲はあれで
    中立を保っているつもりなのか
    一九三五年、エリカと偽装結婚するゲイのウィスタン

    蛇が頭を擡げて
    垣根越しに隣家の庭を覗きこんでいる
    明日は父に
    紙パンツとパッドを届けなければ

    注:W.H.オーデンは、トーマス・マンの娘エリカ・マンと名目上の結婚をすることで、エリカがイギリスの市民権を得てナチスドイツから脱出できるよう尽力した。

    福岡市東区
  • 8月3日(月)

    福岡の父から珍しく電話がかかってくる。「とうとう罹ってしまった。コロナじゃ」。39度近い熱があるという。即日H病院の発熱外来へ担ぎ込まれる。主治医のK先生から電話。「コロナではありませんが、腫瘍による胆管の炎症です。緩和ケア病棟に空きがないので、一般病棟で抗生剤の治療を行います」。それが一週間ほど前のことだった。その時点では一般病棟での家族の面会は一日15分まで許可されていたが、一昨日から再び完全に禁止される。全国的な感染者数の増加に対する措置である。K先生からは頻繁なメール。肝臓の腫瘍の径は左葉が10センチを超え、右葉にも2センチ大のもの。腎臓は萎縮と結石。両側胸水。昨日また連絡があり、急遽緩和ケア病棟に移れることになったという。こちらは30分までなら会うことができる。「いつ来られますか?」。いざ、羽田へ。

    顕微鏡のなかの
    細胞に海が満ちてゆく

    オーブントースターの窓の向こうの
    残照がキツネ色から焦げ茶へと変わる瞬間を
    またしても見逃す朝

    どちらがどちらの背景で
    前景は何なのか
    無自覚無症状のまま市中感染を続ける縁起の仏法
    明滅するボソン収縮のクラスター

    アル・アマルから送信されてきた未来の故郷の稜線が
    老いてなお清しい鼻梁の影をなぞっている

    そのもっと手前、
    内なる波に揺れる尿瓶と
    消毒済みの床を練り歩く遺伝子行列

    蝉時雨のエコーから滲み出る
    未生の静寂

    注:アル・アマルは「希望」を意味するアラビア語で、2020年7月に打ち上げられたアラブ首長国連邦の火星探査機の名称。

    横浜・久保山
  • 8月25日(火)

              前を歩いていた女の素足からヒールがすっぽ抜けた。コロナでなければ、踵の紐を摘み上げて手渡してやっただろうか? 福岡発羽田行きスカイマーク 018。灼熱の地上どこ吹く風の雲の上への天の浮橋。女がしゃがみ込んで奪い取るように手を伸ばした。鋭い目力。マスクの下から、かすかな舌打ちの音が聞こえた。

                            薄墨を引いたような空の波にそそり立つ水の断崖が、バラ色に染まっている。あの下でゲリラ豪雨の瀑布が虹を浮かべている?丸い窓の向こうをどんなに覗きこんでも、触れることはできない。実存のディスタンシング。生は彼方に(クンデラ)。いつだってこの小窓を覗き続けてきた気がする、詩を書き始めるずっと前から。

        また見ることのない山が遠ざかる。膝の上を托鉢の乞食僧が歩いてゆく。彼にとって、山は絶対的な他者であり、永遠に辿り着けない外部であり、放蕩に身を滅ぼした父であった。水は雨、波、涙、酒、尿(しと)など様々に変容しながら彼を包み込む。人のために時雨れて仏さま。ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯、は羊水の喩か? 彼の母は彼が十一歳のとき井戸に身を投げて自殺した。

                    両肺に水が溜まって餓鬼の海。妻が通販で買った父の故郷の海の写真集を、病室のベッドテーブルに残してきた。今頃はもう目を覚まして気づいただろうか。あれくらいの重さでも、持ち上げようとすれば痛みが波立つのだろう。心の床に寝たきりの阿弥がいて。その父は実際に会って手で触れることのできる父よりも濃い、と思う。そこにない実体の影を喰い。手に届かないというそのことで、却って何もかもが鼻先へと迫ってくる。もう抱くことのない女が服を脱ぐ。

        真空は空っぽではありません
        真空のなかには波紋がいっぱい
        驟雨のシュテルンベルガー湖の面のように
        沸騰刹那の鍋底みたいに

        真空は待っています
        場が笑い出して
        時の泡粒が一斉に励起するのを
        世界が愛で重くなるのを

                               翼の先に、 Fuji-yama! いまやすっかり色を失ったダークグレーの屏風に、巨大な影が幽玄している。 いや、有情かな。ほかの乗客たちは誰ひとり顔を上げない。通路を挟んだ隣の男と、その前の男がそっくり同じ姿勢で携帯の画面を覗きこんでいる。まるで右スピンと左スピンの素粒子のペアのようだ。何を見ているのだろう。板一枚下の奈落の薄明かり。みんなして心あわせて、南海トラフにでも呼びかけている風情。ほうホタル破滅飛び交う岸辺哉。

        どす黒い大蛇が富士の裾野を滑り降りて、都心の瞬きのなかへ入ってゆく。座標軸に浮かび上がる欲望のプレーン。不死を得るには大き過ぎ、永遠を俯瞰するには小さ過ぎる我らのスケール。時間だけがまっすぐ前に進んで、空間は錐揉みしながら斜めに押し流されてしまう。ジグザグ。三列先の座席の端から、こんがり焼けたノースリーブの肩がはみ出している。ジグザグジグ。ヒールを飛ばしたあの女だろうか。なんという丸みだ。ザグジ。齧ってやりたい。

    注:太字は種田山頭火の句。

    機中にて
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