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峯澤典子
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4月21日(火)
じぶんと
すべてのひとの
あいだに
空気をじゅうぶんに挟んで
買い物をする去年と見た目はなにも変わらない
野菜や卵をかごに入れ
レジへ向かう途中
空っぽの棚がふいに現れるそのたびに
なにもない棚の
見えないはずの
空気がふくらみ
息が
す、と とまる消えてしまったものと
これから消えてゆくものを思いだせるように
ひと月まえと 昨日と おなじ場所で食事をすませ
おなじ町に住みながら しばらくは会えないひとと
LINEで少しおしゃべりをし離れたまま つながり
近づいては また離されるわたしたちの
一日の終わりから
あふれだし
胸の まだ見えない一か所に折りたたまれてゆく
無色透明の さざなみ のようなものからだの奥深くに入りこむまえに
もどかしさ や さびしさ といった
ひとつの言葉のなかに
いそいで収めようとしても
さらさら さらさら あふれてくる
この消えない波を
ひとときの眠りの岸へと返すために
なにを すればいい月が満ちるのを 息をひそめて待つように
ただ 湯を沸かし
ちいさな子の
陽と風の匂いのする まだやわらかな髪を
念入りに洗う今日も
それ以外には※田野倉の勤務先である杉並区役所は緊急事態宣言下、二分の一出勤となっている。それでも現場には行かなければならないし、狭あい道路事前協議を申請してくる業者もさほど減ってはいない。まだ、窓口のアクリル板も設置されていないし(仮のシートが張られたばかり)、デスクの間にパーテーションもないし、内線電話、コピー機などは共有のままだが、なぜかクラスターが発生したという話も聞かない。
東京・杉並 -
5月14日(木)
昼も夜も
お互いに距離を保ったまま
ネットでつながった部屋が
無数の星のように浮かぶ
街の片隅で二か月前までは
近くの学校の蔦の壁に沿って
緑の小道を抜け
ピアノの教室に向かっていた子は
今日も どこにも出かけずにパソコンをひらき
オンラインのレッスンを受けはじめる先生のなめらかな指の動きから
ときどき すこし遅れて 音が届く
その響きは
水中で聞く 浜辺のかすかな歓声のようで
歩いて十分ほどの教室が
どこか遠い外国に思えてくる今日いちにちのあいだに
パソコンのマイクが拾わなかった ちいさな声と
メールの文字にならなかった ことばは
誰にも どこにも 届かないまま
どんな夜の水底へと沈んでゆくのだろうピアノのレッスンのあと 半袖の子は
窓からの風がもう冷たくないことに気づく
とくにいまは 夕方を過ぎると
外の通りから 人の気配が消えるから
ふたりでベランダに 折りたたみのテーブルと椅子を出した空の薄いみずのいろが 菫のいろに染まりはじめたとき
あ、いちばんぼし、と はしゃいだ声があがり
テーブルのうえの蝋燭が揺れたたしかな音にも
ことばにもまだならない
ほんのちいさな炎の あたたかい息が
それぞれに切り離された
夜の水底から水底へと渡るように
誰にも聞こえないまま
すこしだけ遠くへ 流れていった東京・杉並 -
6月6日(土)
雨の月がはじまり
夏の薄いカーテン越しに
登校する子どもたちの声が聞こえるようになった朝
しばらく閉まっていた花屋を覗いたひさしぶりに目にする
さまざまな色から
赤でもピンクでも紫でもなく
赤でもピンクでも紫でもある花をえらんだ陰 陽
白 黒
必要 不要
緊急 不急一輪の花でさえ
そんなふうにはほんとうは分けられない世界で
息をしているまだ春がくるまえのこと
急ぎの用事でもないのに
話すこともないのに
ひとと会って
いっしょに歩いた雨あがりの
とくべつにきれいな緑のなかを赤でもピンクでも紫でもなく
赤でもピンクでも紫でもある
移ろう花びらのような
やさしい沈黙を交わして今夜は満月
けれど曇りのち雨
満ちた月は空に現れないそれは
ない のではなく
まだ見えないだけのひかりさまざまな輝きと
沈黙を
吸いこんで ひらく
六月の花を
そばに置いて急ぎの用事でもないのに
話すこともないのに
もっと会っていたかったひとに
メールをした「こちらはまだ曇っています。
そちらの窓からは
見えないはずの月が
見えますか」東京・杉並 -
6月29日(月)
六月の雨のなか
ひとつの傘で帰ったこれ以上ふれたら
ふかく傷つけ
傷ついてしまう
と知りながらそんな出会いがあったことも
忘れようとしていたもし
羽を痛めた小鳥を
ただ 守りたくて
てのひらでつつめば
その子はひどく驚き
逃れようとするだろう
死んでしまうほどの激しさででももう 安心して
だれも あなたに ふれられない
あなたも だれにも ふれることはできないいま 離れていることが
あなたを守ることなのだから雨の季節はまだ終わらない
それでも 今朝の天気予報は 晴れおおきく窓をひらき
もう会えないひとのもとへ
てのひらのなかの
見えない小鳥を放つほんとうは
あなたも わたしも
どこにでもいけるんだよそれを忘れるために ではなく
思い出すために
今日の空は
ある東京・杉並 -
7月22日(水)
感染者数がふたたび増え
さまざまな予定や思いがずれはじめた街で
ずれた時間と時間のあいだに
映画館に入ったわたしの席は一番後ろの列の右端
前の列の左端に
マスクをつけた白髪のひとが座った
わたしたちの目の前には誰もいない観客はふたりだけ、の上映は
学生のとき以来だ
そのときは
途中から友人は眠ったため
一本の映画を最後まで観たのは
わたしと映写機のそばにいるひとだけだった上映のあと 部屋のあかりをつけたひとは
つい寝てしまった、と笑う友人に
ときどき眠りながら観るのも楽しいものです、と言った今日の
前列の白髪のひとも
少しうつむいて
ひそかに
眠っているのかもしれないとまる と すすむ をくりかえし
またふりだしにもどっては すすむ
そんな歩行にも慣れてきた
と思っていたけれど 数日前に
予定がまだ立てられないことをあるひとに伝えたとき
いいよ あわてないで
だって わたしたち 疲れているよね
とメールが返ってきたあなたでもなく
わたしでもなく
わたしたち
そう
わたしたち 疲れているんだだから
マスクをつけたまま
椅子に深くこしかけて
眠ってもいいいま
スクリーンの前の
やさしい暗がりのなかで眠るのは
あなたでもなく
わたしでもなく
わたしたちせめて
まだ降りつづく
雨と雨のあいだ だけでも東京・吉祥寺 -
8月14日(金)
ことしは かえれないの?
うん、
いつもならね いまごろね
電車にのって
隅田川をわたって
すこしうとうとしているうちに
むらさきいろの山が見えてくる
うん、いつもならね いまごろね
改札で おじいちゃんが待ってるんだよねいつもならね いまごろね
という ことばを
子どもはなんどもくりかえす
この夏やすみいつもならね いまごろね
でも
ことしは、ね
そのさきのことばを
のみこんだまま
子どもは
眠ってしまういつもならね いまごろね
山のふもとの家に着いたらすぐに
花をもってお寺へ行く
そこには
たぶんことしも
サルスベリの木が立っている
ここで眠るひとたちが暑くないように
花のいろを見られるようにと
木を植えたひとも いまはその蔭で眠っているいつもならね いまごろね
木蔭で眠りつづける 父たちと 母たちに
じゅんばんに花をそなえ 水を飲ませたあと
だいぶ歳をとった木にも
水を飲ませる
いつか別れてゆく、と
家族のだれもが わかっていてもそれはいつものことだから
まいとし まいとし 花を
まいとし まいとし 水を
でも
ことしは、ねそのつづきを話さないうちに
わたしもまた
真夏日の
みじかい眠りにおちてゆく東京・杉並 -
9月5日(土)
半年ぶりに美容室へ行った
消毒がしづらい紙の雑誌のかわりに
指紋をすぐに拭きとれるタブレットが鏡のまえに置かれている
客がひとり帰り
椅子とタブレットは念入りに消毒された美容室の帰りに
外で食事をすることにした
目当ての店に着くまでに
いくつかの閉店のお知らせに気づくほかのひとから離れて座り
じぶん以外のひとが茹でたパスタを
数か月ぶりに食べる
客がひとり帰り
椅子とテーブルは念入りに消毒されたコーヒーを飲みおえるまで
だれとも目をあわさず
今朝 なんとなく鞄に入れた
リルケの『マルテの手記』をひらく「詩はほんとうは経験なのだ。一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣(きんじゅう)を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞(はじ)らいを究(きわ)めねばならぬ。まだ知らぬ国々の道。思いがけぬ邂逅(かいこう)…」(大山定一訳)
いま 生きるためには
生きのびるためには
あまたの経験の痕跡は消され
念入りに消毒されなければならないでも きっと
こんなに手際よく
なにかの
だれかの
わたし自身の
痕跡を
ひとつ 消してしまったらわたしの感情には
見えない傷が
ひとつ 残ってしまうだろう
もし痛みだしたとしても
永遠に知られないままのわたしがさっきまで座っていた椅子もテーブルも
念入りに消毒されてから
家に帰ると
おおきな梨が詰まった箱が
しばらく会えないひとから届いていた
傷はありますが甘いです、という手書きのメモとともに皮をむきながら
かすかに傷んだ跡に
くちをつけると
澄んだ涙のような
蜜の香りがした痛みだす日を
たしかに知っていたころの※リルケ『マルテの手記』(大山定一訳/新潮社)より引用。
東京・杉並
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