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空気の日記

峯澤典子

  • 9月27日(日)

    「人はさびしくなるとなぜ水のちかくへ行くのでしょうか。
    金魚セラピー」

    これは水槽のことか それとも金魚鉢だったか

    二十代のころ
    会社帰りに通ったコピーライター養成講座で
    ある商品にキャッチコピーをつける宿題が出た

    わたしの提出したこの文章について
    講師は よい、とも よくない、とも言わなかった
    そのかわり
    うん、ぼくもよく行きます、とだけ言った

    日曜 雨あがりの公園
    池のまわりには
    散歩やジョギングをする人がたくさん

    さびしいから 水のちかくへ行くのか
    水のちかくへ行くと さびしくなるのか

    おとなたちは 距離を保ったまま
    それぞれの水面をみつめている

    おさない子が あかい魚の影を追って
    わたしのすぐそばまで駆けてきた
    ふう、ふう、と息を吐く彼女と
    おなじ水面をながめた

    水のなかには 終わりのない青空
    見えないけれど そこで遊び 眠る魚たち
    見えるけれど ふれあえないままの人たち

    彼女がふたたび駆けだしたとき
    みじかい髪から
    生まれたての火のかおりがした
    水辺のさびしさをまだ知らない朝の

    その子が駆けていった先には
    今日も
    だれも乗らないボートが
    つながれている

    東京・杉並
  • 10月19日(月)

    家族が眠っているあいだに
    コーヒーをいれて
    パソコンをひらいた
    部屋の空気が
    昨日よりつめたい
    おとといか 三日前の朝にも
    救急車のサイレンを聞いた気がする

    そのときも ここから遠くない場所で
    サイレンの音は止まった
    向かいのマンションだろうか
    それとも

    生まれたときから
    数えきれないくらい
    耳にしているはずなのに
    慣れることはない音がある

    メールを送ったあと
    混んだバスで
    混んだ駅まで行き
    混んだ改札を抜け
    ひどく混んだ電車に乗る

    春、夏、秋、と
    くりかえされる
    カンセン、という
    ひとつの音に
    わたしはもう
    驚かなくなっているのだろうか

    ほんとうは少しも慣れていないことを
    見せないことに
    慣れただけなのだろうか

    ひさしぶりに降りた駅
    一瞬 マスクをはずして
    風のつめたさを吸いこむ
    大通りから
    救急車の音がかすかに聞こえる
    でも 姿は見えない
    人も車も 止まることなく流れてゆく

    きっと、だいじょうぶ
    それとも

    くりかえされる
    空耳の
    サイレンのなかを
    わたしもいまは流れてゆく

    東京・杉並
  • 11月10日(火)

    いつのまにか
    マスクをはずすと
    寒い、と感じるようになっていた

    待ちあわせたカフェの
    うしろの席から話し声が聞こえる

    もう何か月も
    家族以外のだれとも会わなかったんです
    でも 今日は

    ちいさなテーブルのうえに広がる
    午後のひかり
    わたしと
    これからくるひとのための

    窓ガラスのそと
    ベビーカーが通りすぎる
    雑踏のなかでゆいいつ
    マスクに守られず
    木枯らしにさらされている
    赤ん坊の頬は
    朝の水で洗われたばかりの林檎のように
    ひかりだけを浴びて

    だれかのために
    じぶんのために
    無防備でいる

    そんな澄んだ強さから
    目をそらしているうちに
    すり減ってしまったものを
    マスクで隠したまま

    今日
    わたしたちは
    ふたたび出会う

    東京・杉並
  • 12月2日(水)

    駅までの道
    風がつめたい
    マスクをつけていると
    ほっとするなんて

    改札へ向かうひとたちと
    いつものように
    距離を保ったまま
    急いであるく


    だれもいない歩道で
    好きなだけ
    落ち葉や
    ゆきにふれていたのは
    いつのことだろう

    つまさきや ゆびがどんなに冷えても
    そこに立っていた わたしと
    いつ
    離れてしまったのだろう

    きょうの東京の新たな感染者は500人

    だれも話さない
    混んだ電車は
    とてもしずかで
    窓のそとは
    ずっと雲っていて
    だからマスクはあたたかくて

    向かっているのか
    逃げているのか
    いまはわからなくても
    わたしも
    あなたも
    それぞれの
    朝の駅で降りる

    ふたたび冬がはじまった街で
    それぞれの
    きょう
    いちにちを
    生きのびるために

    東京・杉並
  • 12月24日(木)

    よいお年を

    そのひとは改札で別れるとき そう言った
    つぎに会えるのはいつだろう

    おつかれさま
    ありがとう
    どうぞお元気で
    たくさんの言葉のかわりに
    よいお年を
    とだけ わたしも返した

    家に帰ってパソコンをひらくと
    海外に住むひとから
    よいクリスマスを!
    たくさんのくちづけをおくります
    というメールが届いていた

    くちづけを、という言葉から思い出したのは、フランスの詩人、ポール・ヴァレリーの『コロナ』。
    冠、という名を持つこの詩集には、詩人が六十代の後半から亡くなる直前まで、三十二歳年下の最後の恋人に送りつづけた詩が収められている。
    彼は詩のなかで、若い恋人が彼の額にふれるその両手とくちづけで描く輪を「コロナ(冠)」と呼んだ。

    「あっ、きみの両手だ。ひんやりとさわやか、花びらのよう、
    ぼくの額には断然これ、他のどんな冠(コロナ)ももう考えられない。
    私の精神も明晰だったはずが、さすが「愛」に包まれると、
    涙のみなもとの優しい影に惑乱するよ

    (…)
    きみの両手のあいだにあるものにキスを、キス一つのルビーで
    ぼくの王冠が完璧になるのだもの、きみを愛する額にキスを!」
    (松田浩則・中井久夫訳「ナルシサへのソネット」より)

    二十年という詩作の中断ののちに、愛するひとのために書かれた詩は、読むこちらが戸惑うほどにみずみずしく。
    このまばゆい花の冠は、その数年後のふたりの破局と詩人の死によって壊れてしまうのだから。かなしいくらい甘い。

    いま地球の額を覆う冠がはずれたときに
    この地上できっと交されるだろう
    無数のくちづけのかわりに
    今夜
    一通のメールを送るひとのもとへ
    たったひとつの
    言葉を

    どうか
    よい年を

    ※ヴァレリー詩集『コロナ/コロニラ』(松田浩則・中井久夫訳/みすず書房)より引用。

    東京・杉並
  • 1月15日(金)

    必要なものだけを手早く買う
    ひとと会わずにメールですます
    朝から顔をマスクで覆う
    そんな暮らしが長くつづけば 息ぐるしい

    だからきょうは花屋に寄った
    ことしも春の花が並びはじめていたから
    そういえば もう何か月も
    だれかのために
    花束を作ってもらっていない

    以前 チューリップがいちばん好き と言ったひとがいた
    この花は家に持ち帰ったあとも
    太陽をさがして 茎をのばしつづけ
    明るくひらき 日暮れには眠り
    そうするうちに
    花びらが零れ落ちそうなほどに おおきくひらきはじめ
    からだが色をなくし 透きとおるまで
    たっぷりとひかりを吸い
    ぞんぶんに生きたあと
    いちどに散ってゆく

    花びらが燃えあがるようにひらききるまでを
    見守るこちらも
    きのう きょう あした あさって と
    移り変わる姿をじゅうぶんに味わいながら
    終わりにむかって 心をすこしずつ整えてゆく
    散ることもその花の豊かさ と信じられるように

    年が明けて
    緊急事態宣言がふたたび発令されたあと
    子どもの通う小学校でも
    この週末に予定されていたマラソン大会の中止が決まった

    中止が知らされた日
    帰宅した子は
    たのしみにしてたのに とだけ言って
    だまってしまった

    去年の夏からこの日のために朝と夜に走る練習をしていた
    ともだちのMくんは
    帰り道 泣いていたという

    じゅうぶんに咲ききる前に
    とつぜん むしられたら
    花だって
    いたい
    つらい
    かなしい
    さびしい
    くやしい だろう
    ちぎられた茎からは
    見えない血が流れているかもしれない

    ちいさなひとたちが
    きゅうにむしられた花びらのために
    泣けないひとのかわりに
    泣いてくれたから

    わたしは思い出す
    だまったままで
    泣かないままで
    失った花のことを忘れたふりをした
    たくさんの夜を

    そして
    おおきくひらききったあとの花びらを
    見送った朝の
    すがすがしいほどの
    かなしいうつくしさを

    東京・杉並
  • 2月6日(土)

    週末の夜だけれど
    家の前の通りを歩くひとがいない
    車の音もしない
    外の世界が存在しないかのように

    きょうの午後は
    窓をひらいて
    本や手紙の整理をしていた

    なんど整理しても
    数十年間捨てられないものは
    自分の内側にあるのか
    外側にあるのか もうわからない

    幼いころ
    山道を歩いたとき
    けものや けものめいたものたちが
    招く場所へは入ってはいけないよ、と言われた
    それはわたしたちの外の世界だから

    でも
    けものや けものめいたものたちから見たら
    わたしこそが 恐ろしい外の世界だっただろう

    もう一年ものあいだ
    ずっと内にこもって
    仕事をし 食事をし 生きている
    けれど
    外を歩く人から眺めれば わたしは
    少し距離をとらなくてはならない
    外の世界の人でしかない

    きょう
    ひらいた窓から
    昨日よりもあたたかい風が入ってきた
    この風はどこまでゆくのだろう

    わたしの内と外を溶かす
    明るい風は
    玄関を通りぬけ
    けものや けものめいたものたちの山へと
    流れてゆけばいい

    もう数十年ものあいだ
    わたしの内側でひそかに眠っていた彼らに
    あたらしい春を告げるように

    東京・杉並
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